新田塚
**燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地**
福井県福井市にある燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地は、南北朝時代の武将・新田義貞が戦死したとされる地です。
新田義貞の戦没
新田義貞は、鎌倉幕府を倒し、南朝の天皇を京都に迎えるという大功を成し遂げた武将です。しかし、その後、足利尊氏の反撃を受け、南朝は敗北してしまいます。
新田義貞は、南朝の再興を図るため、越前国に進軍しましたが、1338年(暦応元年)7月2日、燈明寺畷付近で足利方の斯波高経軍と交戦し、戦死したとされています。
燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地の由来
燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地は、1656年(明暦2年)、この地の水田から兜が掘り出されたことが由来とされています。この兜は、元応元年(1338年)に鋳造されたものであり、新田義貞のものと鑑定されました。
また、太平記によると、新田義貞は燈明寺畷付近で戦死したとされており、この兜の発見により、この地が新田義貞の戦没地と考えられるようになりました。
燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地の見どころ
燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地には、以下の見どころがあります。
新田義貞の戦没碑
1660年(万治3年)、福井藩の四代藩主・松平光通によって建立された碑です。碑文には、「暦応元年閏七月二日新田義貞戦死此所」と刻まれています。
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